以上、本論ではさまさまな側面から奇術の性質分析や歴史的経緯の紹介、近接概念との比較を試みてきた。
 奇術を特定の芸能分野だけでなく、定義要件を満たす事象すべてを表現する語として理解したとき、われわれは、自らの生活が数多くのマジックで彩られていることに気づくだろう。
 「それ」はどんな形であれ、人類の歴史の歩みの影に、たしかに存在してきた。
 クフ王の前で魔術師デディがおこなったガチョウの首切りにも、古代社会の神殿で自動開閉する不思議な扉にも、タロットカードの第1枚目のモチーフにも、ヒエロニムス・ボッシュ(1)やピーター・ブリューゲル(2)の絵にも、ティル・オイレンシュピーゲル(3)の愉快な悪戯にも、ありとあらゆる見せ物、サーカス、大道芸にも、腹話術を駆使した人形劇にも、世界初の月世界旅行を(スクリーンの上で)成功させたジョルジュ・メリエスの映画にも、ホラー、SF、ファンタジーを取り扱った様々な表現作品にも――
 そういったすべてに、「奇術」は存在してきたのである。

 何故人々はこうも欺かれ、驚かされるのか。
 しかも何故、その驚きを楽しみにしてしまえるのか。
 不思議な物、不思議な者はどうしてこうも魅力的なのか。
 「奇術」について想うとき、個々人によってその答えは違ってくるだろう。本論ではそのひとつの答え方を示し、また答えを出さんとする人々の思索の素材となるものを幾らか提供したつもりである。 
 そしてその最後の仕上げのために、ここでは本論全体を通した軸となるキーワードを挙げておくことにしたい。
「フィクション性」、これが奇術という概念を理解するための大きな柱となることばである。


フィクションと想像能力について

 フィクション、つまり虚構。
 それは「ありえないこと」であると同時に、「ありえたこと」「ありえること」をも意味することを、踏まえておく必要がある。 
 奇術は、固定し硬直したわれわれの日常認識、世界認識に対して、それを笑い飛ばすようなとてつもない不思議を展開してみせる。
 それは観客にとっては「ありえない」ことであるが、奇術師にとっては「こういう世界の在り方もあるんだよ」というメッセージを、言葉ではなく現象によって提示する表現行為なのである。世界解釈の一例を示していると換言してもいいだろう。
 これは絵画、文芸、演劇、舞踏、映画、音楽など、あらゆる表現物に共通する問題である。
 フィクション作品を創造できるということは、我々が実際に属している「現実」とは別の世界の在り方、別の世界の可能性を想定できるということである。
 それは人間の高度な精神性、すなわちイフ(if)の世界を設定できる「想像」能力のあらわれに他ならない。
 フィクションによって構築されるイフの可能性世界において、我々は、人が空を飛び、動物を意のままに使役し、物品を自在に消失・出現させるといった超常識のふるまいを想定出来る。
 太陽が西から昇る世界を想像することもできれば、3つの月が地球の周りを回る世界を想像することもできる。ロボットが知性を持つ世界を、外宇宙生命体との交流を、平行宇宙に住むもうひとりの自分を、想像することもできる。タイムマシンという空想装置を操作すれば、数十億年前の過去または数十億年先の未来がどんな世界かを語ることさえも可能となろう。

 フィクション表現の担い手たちは、そうした飛躍に満ちた想像のすべてを、実際の作品として人々の目、耳、鼻、舌、肌に提供する。
 本論であつかう奇術の場合でいえば、奇術師たちが「魔法(マジック)」という想像世界の現象を観客の前で展開することによって、それが実行されるのである。
 このような世界イメージの構築能力は、昆虫や大部分の動物には備わっていないようである。
 たとえば、数年先、数十年先といった遠く離れた未来世界イメージを(明確かつ具体的に)仲間と共有し、それへ向けて同調する「約束」「契約」「計画」といった行動統御は(いまのところ)人類にしか確認されていない。
 また、他の動物の場合、空間域についてはその個体の知覚から得た情報のみがイメージの材料のほぼすべてであるが、人間の場合は間接的な情報を頼りに、見知らぬ土地の光景をも頭のなかに思い浮かべるといった高度の抽象想像が可能となっている。
 世界のイメージ能力は必ずしも人間特有のものではないが、その発達の度合いにおいて、我々の精神は特化された状態にあるといえる。

奇術の有効範囲

 これらのことを考えていくとき、ひとつの疑問が浮かんでくる。
 はたして、奇術の射程距離はどこまでのものなのだろうか?
 つまり、奇術を見せてそれが有効な対象は?

 単純にダマシの技術だけでいえば、人間以外の生き物であっても、擬態を示す動植物に代表されるように、情報の与え方次第で認識錯誤を誘発することも可能である、が、本論の「奇術とサギ・ペテンの相違」で詳述した理由から、それを奇術と呼ぶことはできない。
 さらに同じ人間でも、生後間もない乳幼児など、脳と認知発達の未熟期にある者が相手になると、固定した現実や常識に対するイフ世界を見せるといった事ができないので、これもまた奇術の射程範囲から外れることになるだろう(4)
 先述したとおり、フィクションを認識できる能力の程度から判断すると、「奇術」の射程は「一定レベル以上の認識階梯に達している存在」という範囲に絞られるようである。そして現時点での地球上では、それは「ある年齢以上の人類」を意味することになる。もちろん今後、人間同様に抽象想像能力を持つ知的存在が現れれば、その限りではないけれど。

総括

 奇術はフィクション性を活用した娯楽芸もしくはその技術である。
 そしてフィクションの持つ広がりは、人間が世界を解釈する可能性の広がりと同義である。
 人間には、実際に生きる物理的現実の他に、抽象イメージとして頭のなかに構築する「世界イメージ」という別のリアリティがあり、そしてそれを様々な形態に練り上げる「想像」能力がある。
 しかも、その世界イメージの構築には、さらなる高次の段階が存在する。他人が世界をいかに解釈しているかという、「他者の中の世界イメージ」までもを自分の中で想定でき、それに基づいて的確な行動を選択できるのである。
 奇術師は、ただ己が不思議だと思うことを客に見せるわけではない。
 どういう現象を見れば、その観客が不思議を感じ、驚く(=通常の世界との摩擦を感じる)のか、それを知らなければ奇術は成り立たない。各時代、各地域の常識に照らして、観客たちの中にある世界イメージを、奇術師が把握しているとき、はじめて認識の誘導が可能になるのである。
 すなわち専門の奇術師は、人間の世界認識(世界がどのようにふるまうか)への干渉方法を経験則的に技術体系化してきた人々だと言うことも出来よう。

 奇術によって騙すこと、そして奇術によって騙されること。
 それはどちらも決して、人間の知性の優劣や勝ち負けの問題ではない。
 両者ともに、きわめて高度なレベルの精神的特性や、それに根ざした技術を素晴らしいかたちで発露させているのである。
 であるから、魔法使いを演じる俳優たちが舞台に立ってひとときの夢を――日常ではありえない/異世界ではありえる――不思議な現象を提示してくれたとき、われわれは胸を張って堂々と、大いに騙され、驚き、楽しめば良いのではないだろうか。



 
(1) ヒエロニムス・ボッシュ Hironymus Bosch (1450-1516)
15世紀フランドル(オランダ)の画家。代表作は「乾草車」「悦楽の園」「聖アントニウスの誘惑」など。中世封建社会の秩序崩壊を背景に、幻想的宗教画を描いた。「奇術師」と題された風俗画には、マジシャンの芸に夢中になっている僧が別の僧に財布をすり取られようとしている場面が描れている。この絵の痛烈な風刺色はさておき、奇術研究の立場からすると、当時の奇術師の具体的な映像情報が入手できる点で重要な一枚である。

(2) ピーター・ブリューゲル Pieter Brueghel the Elder (1525-1569)
16世紀フランドルの画家。農民出身。イタリアで学び、農民生活を題材にした絵が多い一方、よく悪魔や地獄などを主題にして「地獄のブリューゲル」と呼ばれた。彼の作品「魔術師ヘルモーゲネスの墜落」には、画面中央左寄りにカップ&ボールを演じる男が描かれている。また、左下隅のテーブル上には、皿に載せられた生首と剣が描かれており、これはおそらく聖書マタイ伝のサロメによる「ヨハネの首斬り」の故事そのものより、それをモチーフにした人体切断術の表現であろうと推測される。

(3) ティル・オイレンシュピーゲル Dil Ulenspiegel またはTill Eulenspiegel
16世紀ドイツから伝わる民衆本(現存で最古の版は1510〜11年頃の出版とされる)の主人公。『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』は、いたずら者のティル・オイレンシュピーゲルが各地を放浪し、道化・奇術師・もぐりの職人となって教皇や国王から学者や職人の親方までさまざまな身分の者たちを欺きからかう風刺的喜劇譚である。

(4) ロンドン大学バークベックカレッジの研究機関CBCDによれば、生後6ヶ月と8ヶ月の間で認識に差があり、この2、3ヶ月にモノの形や深さの理解機能が大きく発達しはじめるという。おそらくはこのあたりが、奇術の有効範囲の具体的な境界線になるのだろう。物語性や演劇的演出をともなった奇術演目は無理としても、シンプルな「消失と出現」のマジックならば、基礎的な認識反応があれば充分通用するためである(ただ、赤ん坊にしてみれば「イナイ・イナイ・バア」と大差ないのであまり奇術性を問えそうにないのが残念なところだが)。なんにせよ、俗にいう「赤ちゃん学」は1960年代にスタートして80年代半ばから本格化した新しい学問であり、この問題については、今後の研究の成果を待つべきであろう。


 
前川道介 『アブラカダブラ奇術の世界史』 白水社 1992年<br>
『人名小辞典』 新興出版社・啓林館 1962年<br>
阿部謹也訳 『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』 岩波書店(岩波文庫) 1990年<br>
カール・シファキス 『詐欺とペテンの大百科』 青土社 2001年<br>
「新・赤ちゃん学 第1部 世界の研究室から1」 産経新聞(大阪) 2002年1月15日

序章
   
第一部 奇術概史
     1.
西洋編 2.日本編
   
第二部 奇術を構成する諸要素とその性質
     1.
奇術の成立条件について 2.奇術の公開性について 3.奇術における動物の使用
   
第三部 奇術と近接概念との比較
     1.
奇術とサギ・ペテンの相違 2.奇術における「魔女」の不在 3.奇術としての探偵小説
     4.
奇術と超能力 5.メリエス ―奇術としての映画の創始者 6.奇術とSF
   
終章

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