探偵小説という「文章による奇術」があるように、物理的実在である奇術師に演じられるのとはまた別の媒体によるマジックの形態がある。
なかでも優先的に取り上げなくてはならないのは、スクリーン上の奇術、つまり映画であろう。
映画、とくに特殊撮影技術を含む分野の映画は、単に概念定義上あてはまるというだけではなく、歴史的に見ても、舞台奇術の直接的な後継存在というべき表現芸術である。
本章では、映画創生期におけるトリック撮影の開発者となることで奇術と映画に接合点を設けたジョルジュ・メリエスを紹介して、「奇術としての映画」について考察してみたい。
トリック映画の創始者メリエス
ジョルジュ・メリエスは1861年12月28日、パリの製靴工場の経営者ジャン=ルイ・スタニスラス・メリエスの子として生まれた。
ジョルジュは早くから画家を志望したが父に反対され、高校卒業後に商売見習いとしてロンドンへ送られ、そこで初めて奇術と接することとなった。ちょうどエジプシャン・ホール(1)がその名を世界に轟かせていた時期である。メリエスは連日連夜かよいつめて、奇術の鑑賞と研究に凝るようになった。母国へ帰ってからは、政治風刺漫画を描く一方で、寄席やサロンに出て得意の奇術を見せて小遣い銭を稼ぎ、それを画料の足しにしていた。
86年に父が引退、長兄アンリが家業を継ぐや、自身は一層マジックにのめりこみ、とうとう88年にロベール=ウーダン劇場を買い入れ、支配人・脚本家・演出家・俳優・美術家のひとり5役を兼ねて活動しはじめた。座席数わずか160の小屋だったが、近代奇術の先駆者ロベール=ウーダンの開いた由緒ある手品・トリック劇の上演場であった。
そして1895年12月、メリエスはリュミエール兄弟の発明による世界初の映写機<シネマトグラフ>と出会うことになる。
メリエスの孫マドレーヌ・マルテット・メリエスの伝記によれば、『工場の出口』の名で映画史に知られる短い記録映画を見るなり、興奮した彼はその場で特許を買おうとしたが、アントワーヌ・リュミエールは「映画には未来がない」と答えたとされている。
「駄目です。この発明は売り物ではありません。と言うより、売ってもらえないことを感謝すべきかもしれませんよ。破産しなくてすむんだから。この発明はたぶん、しばらくは新しい科学の成果として珍重されるかもしれませんが、それ以上の商業的な見通しはありませんよ」(2)
このリュミエールが言ったとされることばがどこまで正確かははかりようもないが、確かに兄弟は「動く写真」の持つ可能性について、メリエスほどの期待感を持ってはいなかったようである。リュミエールは街頭風景や世界各地の事件など、写実・記録の作品を上映するばかりで、劇映画が製作可能だという思考にはまったくたどりつかなかったのである。けっきょく、メリエスは別経路から映写機の亜種を手に入れ、それをベースに自らの手で研究製作した<キネトグラフ>を完成させ、いよいよ1896年、作品の撮りに入った。
彼が最初に作った4作品のうち、ふたつめが記念すべき『奇術の上演』(3)である。ただしこれはあくまでもメリエスが奇術を演じている姿を記録しただけのもので、芸能奇術と映画の初接触という以上の意味はない。
リュミエール兄弟の場合、観客は「写真が動く」ことそれ自体に驚かされた。動画の存在は、それだけで大衆の常識を超えた出来事だったのである。
だが、実生活をそのまま撮っただけの映画に人々が慣れはじめた頃に、メリエスは映画撮影の世界に足を踏み入れた。水を掛け合う庭師たちや、駅に入る列車などはもはや飽きられる時期だったのである。「驚き」の減少が見せ物にとって致命的であることを、奇術出身のメリエスは他のどの映画製作者よりも深く知っていた。
そこでメリエスは自ら道を切り開いた。それは結果的に、映画史に多大なる貢献と影響を残す道となったのであった。
メリエス作品の意義
ジョルジュ・メリエスの功績は、以下の3つに絞られる。
ひとつ、劇映画の創始。それまで単なる記録であった映画に物語を導入し、登場人物に「演技」をさせた。すなわち世界初の映画俳優は、彼の作品の登場人物であると言える。ここで彼は、映画に「演じる」という概念を持ち込んだのである。
ふたつ、製作システムの体系化。1897年5月、メリエスはパリ郊外モントルイユに世界最初の映画製作スタジオを建てた。これは同時に、天候に左右されない屋内撮影所の創始ともなった(4)。集団でスケジュールを定めて製作活動を行ったり、映像を商品化して安定した生産を継続するには、スタジオ機構は必須である。つまりメリエスは、「映画のつくりかた」を明確化させたという事になる。
そしてみっつめ、メリエスであればこその功績が、トリック撮影技法の開発である。
最初に発見されたトリックは、置き換えと呼ばれるものだった。
彼は撮影機の故障をきっかけに、場面の一部を別の物と置き換える手法を見つけたといわれている。撮影途中でフィルムが引っかかり、取り替えに1分ほどの時間をかけてから録画を再開したフィルムには、ある場面でとつぜん人が消え、別の人と入れ替わる映像が出来上がっていたのである。
偶然に見つけたトリックを、さっそくメリエスは作品に利用した。
それが彼にとって70本目の作品となる『ロベール=ウーダン劇場における婦人の雲隠れ』(5)である。椅子に座った婦人が布で覆われ、また布を取ると骸骨に変身し、もう一度布を掛けて取ると婦人に戻るという筋である。これは、シナリオに基づく映画としても世界初とされる。
こののち、メリエスは映像の重ね焼きや早撮り、逆回転などを駆使して、奇術趣味あふれる劇映画を数々発表した。
メリエス作品の奇術的意義
さて、ここで、奇術の視点から彼の映画作品の意義を改めて考えてみよう。
まず、本論で採用している「奇術」の定義は、「合理的手段によって不合理的に見える現象を観客に提示する娯楽芸能と、その技術体系」というものである事を踏まえておきたい。
メリエス以前、つまりリュミエールまでの段階では、映画はあくまでも「動く写真」であった。新鮮さから観客を驚かせはしたものの、被写体の情報を真正直に無加工で素通りさせる、ノンフィクション表現であったと言い換えても良いだろう。それは科学ではあったが、芸術ではなかった。
しかし、メリエスが『ロベール=ウーダン劇場における婦人の雲隠れ』以降、映画に「演じる」という概念を持ち込んだときから、映画は、単なる記録ではなく、フィクションを前提とする舞台芸術のひとつに変貌した。
トリック撮影についてはその奇術性はいうまでもない。製作サイドにしてみれば、フィルムの操作、編集作業などきわめて合理的かつ論理的な手続きを経て完成させた作品が、観客の目にうつるときは幻想怪奇の不思議現象となるのである。
あり得ない不思議現象が起きて、かつそれが観客に危害を加えない「安全な驚き」となれば、そこには、奇術がある。
19世紀末、映画はメリエスというマジシャンによって奇術性を与えられた。メリエスを接合点として、映画は奇術と真の意味で結びついたのである。
シナリオによるドラマと数々のトリックにより、「合理的手段によって不合理的に見える現象を観客に提示する娯楽芸能と、その技術体系」という「奇術」の定義要件を完全に満たしたことになり、ここに「近現代における奇術としての映画」と呼んでさしつかえないものが誕生した。
人々が、メリエスの大ヒット作『月世界旅行』(6)にどれほど驚いたか、現代の我々には想像すべくもない。当時の大部分の人々にとって、映画はただ実生活で本当に起こったことをみせるだけのドキュメンタリー番組だったのである。そこへ、とつぜん目の前に、ジュール・ベルヌの空想を視覚化したような(実際そうだったのだが)イメージ世界が展開されれば――。
芸能奇術との相違
とはいえ、本論において取り上げた探偵小説の例のように、映画もまた映画の独自性、奇術との相違点を持っている。
ここではそれを「物語性」「タネあかし」の2面に分けて考察してみたい。
▼物語性
メリエスは自作品において、映画界で初めてシナリオを導入した。
これはすなわち、強力な物語性を映画に付与したということであった。
そのため、現象の提示が一義的な目標となる芸能奇術とは異なる評価の基準が介入してくることになる。作品の娯楽性が、視覚効果の出来不出来だけではなく、脚本や俳優の演技能力によっても大きく左右されるのである。
また、同じような奇術的トリック(現代ならSFX、VFXと呼ばれる技術)を用いた映画であっても、映画製作者によって、映像を優先させたいのか、それともあくまでも物語を示したいのか、根本的なスタンスが十人十色だということもあって、ひとくくりにできない面もある。
この場合、映画を「近現代における舞台演劇の別形態」として考える視点も必要であるだろう(7)。
▼タネあかし(舞台裏の披露)
芸能奇術と映画の大きな相違点のもうひとつは、タネあかしの取り扱いである。
芸能奇術の場合、見た目の不合理性を維持するため、ということは即ち「驚き」を確保するため、基本的にタネあかしは御法度となっている。
合理的過程の暴露は観客をしらけさせてしまううえ、奇術師自身の芸能生命に関わる重大な損失になりかねないためである。
奇術界の進歩のために、意図的に古い演目のタネを公開する例もあるが、それでも最新鋭の奇術の裏が明らかにされることはない。
しかし映画の場合は、作品の「メイキング」という形で製作の過程や舞台裏が、少なくとも奇術よりは積極的・肯定的に披露されている点で大きな相違がある。
とくに20世紀以降は、ありとあらゆる作品を享受して審査眼を発達させた観客たちの嗜好が、上質な作品がいかなる手段で製作されているかという「裏も表も楽しみたい」方向に進み出すと、製作者側も自集団の高度な技術を誇るためそれに応じる慣習が構築されてきた。
近年の例では、SF映画『マトリックス』(1999)の1シーンが話題を呼んだときの状況が分かりやすいだろう。
銃撃された主人公が身をかわす一瞬をとらえ、人物の周囲を360度ぐるりと途切れなく映像が旋回するその場面を目の当たりにしたとき、観客はただ驚かされただけではなく、「どうやってそれを撮ったのか?」という点に興味を注いだのである。
そして、その撮影技法(8)は秘伝として隠されることもなく、むしろ宣伝の一環として大々的に情報公開され、それでまた人々を楽しませた。
さらに、「本編+特典情報」という公開形式に利用しやすいDVDなど大容量情報メディアの普及が、そういった映画の舞台裏披露(タネあかし)をさらに積極的に行わせる土台となっていることも指摘できるだろう。
映画においては、タネあかしそれ自体にすら商品価値が見出されるのである。

(1) エジプシャン・ホール
1822年から1904年まで、ロンドンの繁華街ピカデリーにて娯楽の殿堂として人々を集めた。エジプト、インド、メキシコ等で収集された美術品や生物標本を展示するほか、余分なホールを貸し出していたので様々な催し物が行われた。とくに奇術ショーでは多数の有名マジシャンが舞台に立ち、最盛期には奇術のメッカとまでうたわれた。
(2) マドレーヌ・マルテット=メリエス『魔術師メリエス』「11 キネトグラフの誕生」 フィルムアート社、1994年
(3) Seance de prestidigitation,1896
(4) モントルイユの庭園(800平方メートル)に建てられたこのスタジオには、周囲に大道具・小道具製作所、機材室、衣装部屋、俳優部屋などがあり、すでに現在の撮影所と基礎要素において同等の施設が完備していた。
(5) Escamotage d'une dame chez
Robert-Houdin,1896
(6) Voyage dans la lune,1902
(7) むろん、もう一歩考えを進めれば、奇術そのものが一種の「演劇」であるという見方も成り立とう。奇術師は観客の前で「魔法使い」役を演じる俳優なのである。しかし、ここでは「物語性」の濃淡について問うているので、あえて奇術と演劇を分けている。
(8) マシンガン撮影、ブレット・タイムなどと呼ばれる。人物や物体の周囲に無数の一眼レフカメラをずらりと並べて秒間120フレームなどの高密度レートで撮影、のちにコンピュータに取り込んで画像をつなげて編集することで、超スローモーションでありながら被写体の周りを切れ目なく高速移動する映像を表現可能。手法自体は先にイギリス・フランスの実験映画やテレビCM、ミュージックビデオ分野で用いられていたが、『マトリックス』によって人口に膾炙し、以降の映像業界に多大な影響を与えた。

岡田晋 『映画の世界史』 美術出版社 1976年
前川道介 『アブラカダブラ奇術の世界史』 白水社 1992年
ジョルジュ・サドゥール 『世界映画全史3』 国書刊行会 1994年
マドレーヌ・マルテット=メリエス『魔術師メリエス』 フィルムアート社 1994年
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