奇術師は超常的な現象を提示するという点で、後に述べる意味においての「魔法使い」である。
ところが、同様に魔道に属する超常能力の行使者でありながら、奇術のスタイルとして(意識的にか無意識的にか)忌避されてきたものとして、「魔女」の存在を見出すことができる。
奇術の歴史のうち、女性の奇術師は数が少なくとも確かに存在し、また現代は着実に増加の道を進んでいる。にもかかわらず、彼女たちはあくまでも「女性の魔法使い」であって、「魔女」と呼べるスタイルは使っていない。個別の演目ではともかく、当人の一貫した様式として「魔女」イメージを導入する奇術師はほぼ皆無である(1)。 たとえば日本・海外あわせて最も有名な女性のマジシャンのひとりである引田天巧(2代目)を思い浮かべてみてほしい。彼女の演出スタイルの基本はプリンセスという二つ名が示す通りに華やかなダンスショーやレビュー、もしくはサーカスのそれである。古びた黒いローブを引きずって箒にまたがるような「魔女」の陰鬱なイメージはもとより採用されない。
奇術における女性の問題、さらに奇術の世界にはなぜ魔女がいないのか――厳密には、なぜ「魔女」イメージを採用する奇術師が現れないのか――という問題は、未だ充分な考察がなされていない。
奇術を題に取った研究そのものが少ないという根本的な理由はまた別にして、ひとつの要因をあげるならば、この問題を突き詰めていくと最終的にはキリスト教史の複雑微妙な暗黒面に触れさるをえないことから、わざわざ好んで奇術と魔女を結びつける研究者がなかなか出てこない事情が推測される。
しかし奇術の立場から魔女もしくは「魔女」イメージをとらえ直すことは、奇術という文化事象の性質を問うためにあえて踏み込んでみるに値する領域である。本章では、古代から現代までの「魔女」イメージの変容に沿いながら、なぜ奇術において「魔女」という概念存在が欠如したか(欠如させられたか)を考えてみることにする。
「魔法使い」というイメージ
「魔女」について述べる前に、まずは芸能としての奇術が古来より演出上導入している様式について考える必要がある。
これは単なる物理的な衣装の形状のことではなく、奇術師が観客に対して特定の演出効果を狙って身にまとうイメージの問題である。多くの奇術師はその職名に魔法使いの名を冠するが、魔法使いそのものではない。「魔法使い」というイメージを演出しているのである。奇術の世界において「マジシャン」は「魔法使いの役を演じる役者」または「魔法使いというイメージを採用する芸人」を意味しているという事に、本章のみならず奇術について論じるときは常に留意しておきたい。
古代社会の聖職者たちの一部は、民衆に対する超越的権威を獲得するために奇術テクニックを利用した。彼らはトリックを用いて神秘的現象を発生させ、それにより己が本物の魔法使いであることを人々に示そうとしたのである。しかし、商業もしくは娯楽芸能たらんとする奇術では、この手段と目的が逆転する。商業奇術師は役者であり、芸人である。そのため不思議な現象を提示する事それ自体が一義的に優先される目的であり、彼らが魔法使いであることはその不思議な現象に説得力を付与するための手段でしかない。そこでは、彼らがフィクションの魔法使いであるという暗黙裡の約束事が、現象の提供する驚きに安全性を保証するのである。
「魔女」というイメージ
次に考えるべきは、ここで述べる「魔女」イメージが具体的にどのようなものを指しているのか、という点である。
中世、魔女裁判で重視された悪魔(色魔。人の精力を収奪する魔物。男色魔
incubusと女色魔 succubusの2種がある)との性関係に基づく契約という迷信は、もとは古代アッシリアやバビロニアに見られるものである。呪術によって農作物や飲み水を腐らせ、人形を作り毒薬を生成して望みの相手を病気にしたり殺したり、空を飛行して乱交集会に出席するという類の信仰ははるか古代インド、エジプトから、ギリシャやローマにも伝播したという。
このように魔女の歴史的なイメージ形成を子細にたどると、人類学や民族学の長大な旅路へ飛び出さなくてはならない。また、近代に入るかどうかという時期には、科学の先駆者たちが魔女として弾劾されることもあり、技術史・科学思想史にもまたがる問題提起がなされるであろう。しかし、そうした長い歴史の細かな検討はその専門分野に預けることにして、ここでは本論に必要な範囲で概念の輪郭を描くにとどめたい。
ここで必要なのは、現代に直結する、魔女の歴史の最終段階……魔女信仰の吹き溜まりであった中世キリスト教国の一般大衆の間に、伝承的な像として浮かび上がっていた「魔女」の姿である。
それは例外なく年経て、醜悪にしわ枯れた老婆であった。スペンサーが『神仙女王』(2)で描写したように、村人たちから遠く離れ、孤独のうちに暮らしながら悪魔のような所業をひそかに行う邪悪な存在である。
ヨーロッパ各地で、魔女は社会の中にありながら同時に憎まれ疎外される、「内なるアウトサイダー」として機能していた。魔女には病老死苦といった個人の不幸や、作物・家畜の不出来といった共同体の不幸に対する心理的な補償作用が求められた。つまりスケープゴート――みもふたもない言い方をすれば鬱憤晴らしの便利なターゲットだったのである。
補足しておくと、民衆レベルでの迫害だけではなく、時の支配者による弾圧もあった。古くは紀元前1200年のエジプトのほか、ギリシャでは紀元前4世紀にデモステネスが、ローマではネロなどによる厳しい迫害があり、キリスト教改宗後のコンスタンティヌス帝(4世紀)やフランク王国のシャルル大帝(9世紀)も呪術禁止の法令を発布している(最近では、驚くべき事にイギリスが1951年まで魔女禁止令を継続していたという例がある。その法令の実効性はともかく、西洋における魔女排斥の伝統的な根深さがうかがえる)。
ただし、こうした古代からの迫害が直接に奇術における魔女排斥を招いたと判断するのは短絡的といえよう。
魔女が魔女である事だけで迫害されるようになったのは、魔女裁判に文字通り火がついた15世紀から後のことである。それ以前には、魔女が断罪されるのはあくまでも呪術を使って殺人をおかし農作物を枯らすなど魔力の「悪用」を行ったからであった。逆にいえば、病気を治したり、厄除けをしたり、作物の成長を促進させるなどの白魔術はむしろ喜ばれ、擁護すらされたのである。産婆やそのほか民間医療の実践者などもこれに含まれる。
もともと、魔女を意味するwitchは中世英語のwiccheに、アングロ・サクソン語ではwicca(男);wicce(女)に由来する。wiccaは予言者・占者を指すwitegaの短縮形がくずれたもの(witegaは「見る、知る」を意味するwitanに由来)であり、魔女とは本来は闇の魔術よりむしろ神に仕える巫女の系譜に連なる存在だといえる。イタリアでは魔女はストレガ(La
Strega)あるいはヤナラ(Janara)と呼ばれたが、これはヤナ(ユノ、ジュノー;大神ゼウスの妹で正妻。女神の最高位)に仕える巫女の古い添え名である。
ところが、15世紀、16世紀と進み、ローマ・カトリック教会が魔女を異端審問の中心的な標的へさだめるようになってから、魔女は魔女であるがために弾圧されはじめた。しかも、異端なる魔女がどういう存在かという論証を『魔女の槌』(3)など数多くの著述で行ったのは、ほかならぬ異端審問官たち自身である点が看過できない。つまり魔女狩り(妖術撲滅)という目的が先にあって、後からそれに合わせた「魔女」イメージが構築されていったのである。
この急ごしらえされたイメージがいかなるものかは上述したとおりであるが、実際に魔女として逮捕、裁判の後死刑となるには必ずしも「魔女」のイメージの要件を全て満たしている必要はなかった。ほんの些細な発言・行動、その日の顔色からでさえも、怪しきは全て罰するの構えで老若男女かかわりなく魔女として牢へ入れられ拷問を受けた。なお、被疑者の財産の没収権が審問官に与えられていたことも付け加え記しておく。魔女狩り現象が単なる弱者虐待にとどまらず、一定以上の地位を持つ中流・上流富裕層まで巻き込んだ理由を考えるには、観念的な宗教解読だけでなく、そうした実利の問題も視野に入れておく必要があろう。
奇術師にとっての「魔女」
さて、ここでようやく本章の問題とする、奇術師たちがなぜ「魔女」イメージを導入しなかったのかという問いに取り掛かることができる。
まず、中世後期から近代までの「魔女」視される事が死につながる状況下で、奇術師たちがそのイメージを導入するわけにはいかなかったのは当然である。彼らは身を守るためにやむをえず審問官やその他の権力者に詳細なタネ明かしをしなくてはならないほどであった。1584年、ロンドンで刊行された英語文献としては世界初の奇術解説書『妖術の開示』(Discoverie
of Witchcraft)は、そうした奇術の原理とする合理性を弁護する必要性から世に出てきたのである。
それでは、その前と後の時代、つまり古代〜中世前期と近代以降は、魔女であることに対して比較的冷静寛容な時代だったのに、なぜ奇術は「魔法使い」だけをその様式とし、「魔女」イメージを採用しなかったのか。
古代〜中世前期に関しては、2つの原因が考えられる。
ひとつめは、単純に「魔女」イメージを娯楽奇術に導入するのが難しかったということ。
芸能奇術は大道芸式にしろ小屋掛け式にしろ、商業であるため客の数がある程度以上確実に見込める市場なり住宅密集地なりで行われる必要がある。そうした都会型の芸能にとって、土俗的な「魔女」はイメージの浄不浄をいう以前にあつかいづらい素材だったのではないだろうか。超常現象を演出する点では「魔法使い」イメージと背中合わせであるものの、魔女の場合は呪殺や毒薬生成といった、間接的な行為が主であり、娯楽ショーに不可欠な派手さに欠ける面が否めない。
またもうひとつ、「魔女」といわれてすぐに人々が権威(説得力、もっともらしさ)を感じるようなキャラクターやエピソードが少ないということが挙げられる。
具体的にいうと、中世、奇術師に限らず路上芸人たちはみな巧みな口上で道行く人々の足を止めさせ、自分の芸に引きつけていたわけだが、その際に「あの錬金術師カリオストロが〜」(4)「あの魔術博士ファウストによれば〜」(5)などと名前を出せるようななじみの伝説的人物が「魔女」の場合はあまりにも乏しいのである。先に述べたが、「魔女」という概念は、じつは長い時間をかけて練り上げられた部分より、中世後期から本格化した魔女裁判の過程で急ごしらえされた面が強い。そのため人々は、魔女と言われてすぐに思いつくようなキャラクター、物語を共有する機会が得られずじまいになり、奇術師もそれにあわせ、わざわざ「魔女」イメージを導入することはしなかったのである。
では、魔女狩り終息後、近代〜現代社会の奇術ではなぜ「魔女」が不在のままになっているのか。
最大の要因は、19世紀からのちの奇術の「魔法使い」スタイルが劇的な変化をおこしたことにある。この改革の発端となったのが、第一部第1章で述べたフランスの奇術師ロベール=ウーダン(1805〜71)で、彼は従来の奇術師が用いていたオカルティックな魔術師の装い(マント、フード、杖、つけひげ)を舞台から一掃し、新興市民階級の礼装であるフロックコートを着て、こけおどしの装飾を廃して照明の明るい舞台に立つなど、高度に洗練された演出を徹底した。
以降、奇術師という「魔法使い」はそのイメージに「社交場の紳士」という姿を上書きして、近代化を決定的なものとした。それは同時に、魔女狩りによって遠ざかる一方だった「魔女」イメージを取り込む機会もなく訣別して新たな様式に移行したという点で、大きな時代の節目であった。
結局奇術とまじわることのなかった魔女信仰が近代・現代社会でどのように表出したのかはまた別の研究テーマとなるだろう。ただ、のちに奇術とかかわったものでもあるのでひとつの例を挙げておくと、ちょうど奇術がサロンなど社交界に進出する時期(19世紀中頃から)と重なってヨーロッパ各国に大流行した心霊術(降霊術)の存在を指摘できる。当時、降霊会(seance)の中核に据えられた霊媒能力者の多くが女性だったことは、神託をことづかる巫女に連なる魔女の系譜を考える上でひじょうに興味深い点である。

(1) 一応、国内に<魔女軍団スティファニー>という商業グループが確認されるが、これは和製アニメーション業界でいう「魔法少女もの」の路線を利用したものであり、本章でいう元々の「魔女」イメージからは大きく隔たった存在である。
(2) 『神仙女王』 Faerie
Queen (1590〜99)
エドマンド・スペンサー Edmand Spensorによる、アーサー王を完璧な騎士としてえがいた叙事詩。十二の徳を誉める寓意的文学作品となるはずだったが未完。
(3) 『魔女の槌』 Malleus
Maleficarum (1486)
著者はハインリヒ・クレーマー(別名インスティトリス)とヤーコプ・シュプレンガーで、両者とも異端審問官。この著作の少し前、1484年に魔女狩り奨励と異端審問の権限強化を図って教皇インノケンティウス8世が教書『限りなき愛情をもって要望する』(Summis
desirantes)を公布しており、彼らはそれに後押しされる形で活動した。
(4) カリオストロ Cagliostro
(1743-1795)
本名ジュゼッペ・バルザモ Giuseppe Balsamo。18世紀後半フランスの怪人物。フリーメーソンの大物であり、本物の魔術師として熱烈な信者を持っていたが、法王庁に逮捕され、獄死した。
(5) ファウスト Faust
15〜16世紀ドイツに実在したとされる伝説的魔術師。様々な逸話が民衆本で人気を集め、後にイギリスのマーロー、ドイツのレッシング、ゲーテ、トーマス=マン、フランスの作曲家グノーなどがこれに材を取った小説・戯曲・オペラを創作している。

前川道介 『アブラカダブラ 奇術の世界史』 白水社 1992年
森島恒雄 『魔女狩り』 岩波書店(岩波新書) 1973年
ジャクリーン・シンプソン 『ヨーロッパの神話伝説』 青土社 1993年
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