奇術では、タネを隠して嘘をつき、客の目をあざむく事によって驚きが発生する。
となれば、奇術を主題に掲げる本論文においても、「だまし」「あざむき」についての考察が必要不可欠となろう。それも道徳や倫理の評価問題ではなく、文化生活上の高度な情報戦術の一環としての「だまし」についての考察である。
ただし、一口に騙しや欺きといっても、その具体的形態は多様で、目的もケースバイケースである。
悪質なレジ係が日に10回から20回はやるといわれる小さなごまかし(1)や、数学的にナンセンスなはずの不幸の手紙式ネズミ講フランチャイズなどは規模はちがえど純然たる金銭目的だといってよいが、学者による遺跡のねつ造だとか、自分の技才を過小評価した批評家への意趣返しとして架空のフェルメール作品をでっち上げたファン・メーヘレン(2)など、そこへさらに専門家の権威や矜持といった微妙な問題がからんでくる場合もある。が、ともあれ、歴史の時点を問わず人の世が色とりどりの「だまし」に満ちあふれていることは間違いない。
いったい、いつから人類はこうも多彩な「騙し屋」になったのだろうか。
この点は非常に興味深いものの、起源自体はもはや確かめようがないし、また解釈次第でどうにもとれるところである。
「だまし」をただ「他者に対する意図的な認識錯誤の惹起」とだけ考えるならば、先史時代の人類が狩猟・漁労のなかで獲物を招き寄せ、あるいは捕殺するために開発した様々の罠さえ定義を満たすことになる。落とし穴にはまる獣は、そこに地面が続いていることを疑わずに騙されるのだから。
しかし、そこまで広義に幅を取ると収拾がつかなくなる恐れもあるので、ここでは奇術に直接関わりのある範囲で、対人用の詐欺・ペテンに絞って論を展開しようと思う。
同じ「だまし」の技術体系として、奇術と詐術にいかなる相違があるのかを明らかにすることが、本章のねらいである。
「虚構」の了解の有無
奇術と詐欺・ペテンが一線を画するのは、前者はそれが虚構であることを前提にし、逆に後者は虚構ではないことを前提にしている点である。
奇術師は、嘘をつく。個々の演目において奇術師は、「タネも仕掛けもない」数々の道具を用いて不思議な出来事を引き起こしてみせる。奇術師が手つかずで素のままだと主張する果物には前もってコインが埋め込まれていたり、空っぽだという箱にはすでに品物が入っていたりする。観客はその嘘に気づかない。その結果、見事にあざむかれ、いきなり飛び出す不思議現象に拍手喝采を送るのである。
しかし、ここで重要なのは、だまされている観客側でも奇術師の言動に嘘が混在していることをあらかじめ了解しているということである。それがどんなものかまでは分からないにせよ、全体として何らかのトリックがある(=虚構である)ことだけは分かっている。それが奇術を「魔法」から、そして本章での比較対象である詐欺・ペテンから区別する特性である。
対して、詐欺やペテンは、被害者に信じさせることが成立のための最低必要条件である。
保険契約者または事故の被害者を装った詐欺請求の遂行者は、絶対に保険会社の調査員に自らの創作したストーリーを虚構だと見破られてはいけないし、テレビのクイズショーで10数万ドル稼いだ勝者の回答がやらせだと、番組製作者たちは視聴者に気づかせてはいけない(少なくともシリーズ放映中は)(3)。
奇術とは反対に、嘘を嘘と知られれば、いかに巧妙な計略であろうとも「だまし」として機能しない。
詐欺は、ノンフィクションと銘打たれたフィクションなのである。
「合理性」と「驚き」
奇術と詐欺・ペテンの相違のもうひとつは、現象の合理と不合理の扱い方にある。
比較のため簡潔に区別すると、
奇術=「合理的過程を不合理的に見せる」
(理にかなった事を見た目に不思議なものとして認識させる)
詐欺=「不合理的過程を合理的に見せる」
(理にかなわぬ矛盾や偽りを疑わせず真実として認識させる)
ということになる。
これは同時に、本論文で繰り返し奇術の根源的性質として述べる「驚き」についての線引きでもある。
奇術師は、まず何をおいても観客を驚かせなければならない。
観客は、虚空からカードやコイン、ウサギやハトが出現するのを見せられれば、常識との摩擦熱としての驚きを感じ、不思議・神秘を認識する。我々が属する日常世界の中で、物体が時空間を瞬間的に超越することは不合理的なためである。
もちろん奇術は「魔法」ではないので、その現象の背後には合理的、論理的な手続き(トリック、仕掛け)が存在している。それは巧みな手さばきだったり秘密のポケットだったりと、演目によってそれぞれだが。
しかし、奇術、とくに芸能商業としての奇術は不思議現象を起こすことが義務である。なので、彼らは観客の驚きを獲得するため、あえて合理性を隠す必要性がある。
いっぽう、詐欺は同じ「だまし」の技術体系であっても、ベクトルが真逆だといえよう。
詐欺やペテンでは、現象を認識する観客すなわち「カモ」に、現象そのものへ驚きや不合理性を感じさせてはならない。本来ならどうにも理屈に合わないことを真実として演出するのが詐欺師の仕事である。彼らは納得させ、信じさせ、疑いを回避して、被害者から利益を引き出すのである。
たとえば、世に尽きない詐欺のネタのひとつに「●●療法」がある。
ネタは何でもいい。「このような理論で保証される確かな効果」により「たったこれだけの値段」で健康な身体が約束される、という主張を信じてもらえさえすれば詳細はいかようにもアレンジできる。
治癒力の根拠は時代ごとの流行りすたりで一角獣の角だったり生命磁気だったりウラニウムだったりと様々だが、要は、騙される者が頷けるだけの説得力を持ったテキストがあれば、何であっても構わないのである。
そして、そこには奇術でいう意味での「驚き」はない。少なくとも患者たちは、この上なく理にかなった治療法と信じるからこそ、大金をつぎ込んで実際は無意味なガラクタの「特典」に浸るのである。これはべつに健康療法品詐欺に限った話ではない。わずか数百ドルの投資で「カエルの養殖」をすれば一財産作れるというセールスマンの言葉には、常に説得力がある。弁舌爽やかな詐欺師にかかれば、世間ではカエルの足の需要が高まりつつあるというヨタ話をごく自然な状況として信じようという気になってくる──フランス以外の国であってもだ。
であるから、詐欺においては、最低でも「だまし」が行われている間は、不合理性や驚きといったものは生じない。
被害者が驚かされるのは、詐欺が明らかになった時、すなわち現象の過程が暴露されたときである。
自らがどのように欺かれていたかを知らずにいた者たちは、後からそれを知り、驚く。この点、欺かれていることを最初から自覚し、かつタネあかしが行われると驚きが損なわれる奇術とは反対の性質のあらわれだといえる。
そしてもちろん詐欺師・ペテン師にとって最高の理想はといえば、最後の最後まで不合理性が明るみに出ない、つまりカモが生涯だまされたことに気づきさえしないという結末であるのはいうまでもない。

(1) ウォークアウェイと呼ばれる古典的な釣り銭詐欺。サーカス、スポーツ・スタジアム、映画館、駅のキオスクなど、ブース内から金をやり取りする場所ならどこでも可能な手法である。これらのブースには必ず、構造上お客から死角になる領域があるからだ。悪質なレジ係は、釣り銭を台に置くとき、わざと小銭の一部を客の視界の盲点に入るようにする。うかつな客はそのまま歩み去る(ウォークアウェイ)のでネコババできるし、もしも客が注意深く釣り銭を数えて不足を訴えてきても、「ほら、そこにあるでしょう」と盲点を指させば、ごまかしは露呈せず、むしろ客が自分の視野の狭さを謝りながら、やはり歩み去って(ウォークアウェイ)くれる。
(2) ハン・ファン・メーヘレン(1889-1947)
英語読みでハンス・ヴァン・ミーゲレン。オランダの芸術家。彼は20世紀最大の不幸な「名画家」のひとりであった。彼は模写ではなくオリジナルの贋作を多数描いて、実在しないフェルメールの「中期」を創造した。第2次大戦中に作品のひとつ『キリストと姦婦』をナチスのナンバー2(ヘルマン・ゲーリング)に売ったことから、後に彼は「国宝」売却の責任追及を受け、死刑を免れるためついに贋作を告白した。しかし専門の絵画批評家たちは「真の傑作は見れば分かる」とこれを一笑に付した。ファン・メーヘレンが刑務所内で実際に「傑作」を描いて見せたうえ、当時最新のX線解析によって過去の贋作まで証明されると、批評家たちの顔からは嘲笑と血の気が消え失せた。最終的に、ファン・メーヘレンの罪はナチへ「国宝」を売り渡した事ではなく、フェルメールのサインを偽造したという詐欺にあると判決を下された。しかし体の弱さと精神的落ち込みから、彼は懲役前に心臓発作を起こし、1947年に亡くなった。
(3) 1950年代、米国テレビ界は賞金獲得式クイズ・ショーの最盛期を迎えていたが、59年に番組のやらせが暴露されると急速に衰退した。NBCの「21」というクイズ番組でコロンビア大学の講師チャールス・ヴァン=ドーレン博士が事前に「脚本」を渡され、まやかしの知的ゲームで12万9千ドルを勝ち取る姿を演じたというスキャンダルが特に知られている。

中村弘 『マジックは科学』 講談社(講談社ブルーバックス) 2000年
カール・シファキス 『詐欺とペテンの大百科』 青土社 2001年
ジョー・デイヴィッド・ブラウン 『ペーパームーン』 早川書房(ハヤカワ文庫) 1992年
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