奇術は成立のための大前提として、そこで生じる現象がすべて合理的過程によって演出された虚構であるという了解が、あらかじめ演者−観客の間で常識化されている必要がある。それも、暗黙裡に。
虚構性を足場にしているからこそ、われわれは神秘に対して安全を認め、娯楽を享受できる。劇場に入って椅子に座っているかぎり、舞台上で奇術師がハンカチを白鳩に変え、虚空から花束を取り出し、人間を煙のごとく消してみせても、観客はそれらを日常世界から一歩離れた夢の中の出来事だと感じて陶酔にひたれるのである。
しかし換言すると、この虚構性という前提が観客側に了解されていない場合、奇術現象はいかに合理的、論理的な手段を内包していようとも、受け止める観客は「本当の」魔術・呪術の顕現を認識し、驚異の安全性は崩れ去ってしまう。そのとき無力な観客にとって奇術師は本来の意味でのマジシャン(魔法使い)となり、一種の権威を――奇術師当人が望む望まぬに関わらず――感じ取るのである。
もちろん芸能マジックが世界的にショービジネスとして確立された現代では、人々がそういった事態に陥る頻度は著しく低い状況にあるといえる。だが、その状況に至る(=奇術は虚構という認識を普及させる)までに、奇術はその歴史のある時点から、芸能マジックと魔術・呪術の間に一線を画す努力として、常にある程度の情報公開をしつづけなくてはならなかったことを忘れてはなるまい。
本章では、この情報公開の出発点について西洋と日本の事情の相違をとらえてから、最後に両者が交わった近代以降の状況をまとめてみることにする。
西洋の場合
西洋社会において、奇術の内的技術を明らかにするような解説本の類は、奇術師たちから自発的に生まれたものではなかった。
1584年、ロンドンで刊行された『妖術の開示』(1)は、英語文献として世界最初の奇術書であったが、著者のスコット
Reginald Scot
は英国の素封家で、奇術師ではなかった。
そもそもこの文献は奇術実習のための実用性を主眼としておらず、真の狙いは魔術の超自然性を否定し,悪魔の力と信じられているはなれ業も人間の手で合理的に行いえることを証明することにあったのである。
これを理解するためには、まず当該書物が出版されたタイミングを視野に入れる必要がある。
16世紀とその前後1世紀はカトリック教会が権力をほしいままにし、異端審問から魔女狩りが最高潮に展開した時期であった。常道から外れた知識や技術を示すことは悪魔との結託を誇ることと同じとされるこの時代、無用の疑惑を招いて宗教裁判にかけられ、自白を強要される芸人たちも当然いたわけである。
そのためスコットは人々の迷信を取り除き、宗教的暴虐の犠牲者を減じるために、芸能奇術の技術を紹介する(タネあかしする)ことによって「マジック」の虚構性を証明し、教会が迫害を行う根拠であった悪魔の存在を否定せんとしたのである(2)。
したがって、西洋奇術の情報公開は、奇術師たちの弁護手段という、かなり切羽詰まった事情から出発したといえる。
日本の場合
日本初の奇術書は、元禄10年に刊行された『神仙戯術(しんせんげじゅつ)』だといわれている(3)。これは読者が実際に奇術を演じられるようにトリックを詳述紹介した伝授本であり、それ以前の誇張や錯覚が目立つ神秘的テキストだけでは人々が飽き足らず、合理的記述を求めるようになったことを示す意味で画期的な書物でもある。
江戸期、とくに元禄期は、国家体制が安定したことで中間層(町人)の生活内容が向上し、余裕が生まれ、知的水準および文化レベルも高まっていた時代である。趣味、洒落、酔狂に生きることが許されるだけの豊かさがあった、のびやかな社会だったともいえよう。
遊戯の範囲が広がり、様々な種類の宴がもよおされるようになると、その席で手品を演じてみたいという者も出てくる。
当時、日本において奇術師の主な形態は放下師(ほうかし)と呼ばれる投げもの大道芸人に由来する低身分者たちであったが、好奇心に満ちた元禄の趣味人たちは、人々を驚かせ、超常現象を演出する知的遊戯としての奇術を自らも学ぶことにいささかも躊躇しなかったようである。『神仙戯術』の成功は、まさにそうした人々の嗜好に合ったからであろう。
このように、西洋とは異なり、支配的宗教組織による実力行使を伴った徹底的な「浄化」が行われなかった日本では、奇術の公開性は文化熟成の産物として発生したのだった。
近代以降の状況
18世紀後半以降、西洋では近代化が進むと共に、娯楽ショーとしての奇術もそのスタイルに近代的変容を迎えることになった。芸能奇術、商業奇術の認知が進むと、西洋においても、自発的な情報公開である技術解説書を刊行する奇術師が登場しはじめることになる(4)。
西洋奇術の場合、この情報公開がつねに、個人の知的所有権のしがらみの中で展開したことが最大の特徴として挙げられる。つまり、あるひとつの奇術演目をタネあかしした場合、必ずそれが誰の発案によるものかという、著作権問題がつきまとってくるのである(5)。これは西洋奇術師が芸人である自らの在り方について、「芸を売る商業者」としての側面を発達させており、利益侵害・営業妨害に対して非常に気をとがらせてきたためと考えられる。
対して、本歌取りといった概念が育まれるような土壌であった日本では「芸とは道」という姿勢が追求されていたため、知的所有権についてはよく言えばおおらか、悪く言えば無頓着な面があった。師を見て技を盗んでも、門前の小僧が経を覚えても、咎められることはなかったのである。日本の奇術界では、明治以前に演目の発案者の座を争った奇術師のエピソードは見られないようである。
こうした職業姿勢の違いから、日本手品が西洋奇術との合流を目指した明治・大正期には幾つかの摩擦も生じている。渡来してアメリカの奇術ショーを鑑賞した日本人奇術師が、のちにそのショーで掛けられた演目を取り上げタネあかしにまで及んだために、営業妨害だとして激しい指摘を受けた例があった(6)。それ以降、日本でもタネあかしの取り扱いは西洋に準じている。
現在では欧米型の奇術スタイルが全世界的な主流なので、アマチュアは別として職業奇術師のトップ・プロは日本でもショービジネスマンという立場で活動している。
以上のように、近代以降は商業面でトラブルの元となりやすい奇術の情報公開であるが、次々と新たなバリエーション(既存の芸の組み合わせによる新たな発展形態)が開発されるなか、もはや独創性、オリジナルという発想そのものが再検討を必要としてきていることから、今後タネあかしという行為がたどる道については大きく2つの立場がありうる。
ひとつは、従来通り、奇術師の利益を維持するために最大限の機密保持を訴える立場であり、いまのところはこれが奇術界の大勢を占めている。
もうひとつが「いつまでも古い技術を用いていては奇術界の発展が疎外される」という思想的な理由から、あえて積極的にタネあかしをおこなおうとする立場である。ただ、これもプロがプロたるために最新の技術については秘を守らざるをえないので、実質は市販されている奇術解説書と大差ない公開性しかもてず、根本的には前者と変わらないかもしれない。
何にしても、観客の驚きだけは絶対に殺すわけにいかないのだから、魔法使いたちの謎に満ちた奥義はこれからも常にある程度は観客の目から隠されていくことであろう。

(1) 原題は"Discoverie
of Witchcraft"。奇術解説部分は全体のほぼ10分の1の30頁ほど。当時行われていた約50種の奇術が収録されている。奇術最古典の演目と言われる"カップと玉"や、カード(トランプ)を燃やしてから灰になったはずのそれを観客のポケットから取り出したり、キリを身体に突き刺しても傷痕がつかないなどの奇術現象が簡潔な文章で解説されている。
(2) スコットの死後、この本は異端文献として焚書に処された。悪魔の存在の否定はその裏返しとして神の創造力、ひいては神そのものの否定になりかねないと解釈されたのである。このため現存する初版は非常な希少本となっている。
(3) 刊行は元禄10年(1697年)、11×16センチの横綴じで紙数13丁という体裁。板元は京都の菱屋勘兵衛で、著者は陳眉公とある。眉公は中国の明末期の文人画の大家であり、1639年に82歳で没した。日本で刊行された『神仙戯術』は術のひとつひとつに原文を掲載し、次いで訳文があるという形式になっている。つまり、本邦初の奇術書は翻訳であったことになる。
(4) 1868年、ロベール・ウーダンが著した"Les
Secrets de la prestidigitation et de la Magie"(『奇術の秘密』)は近代奇術のエッセンスとされる。ウーダン(1805-1871)はフランスの奇術師でマジックを近代的な姿(サロンや劇場の舞台に、夜会服で正装して立つ)へと変貌させた天才的エンターテイナー・マジシャンである。
(5) この手のトラブルで奇術史上おそらくもっとも有名なのは、人体切断術(ノコギリで人の身体を切断、後に無事な姿を見せる)の発案者の地位を巡る、英国の奇術師セルビットとアメリカの奇術師ホリス・ゴールディンの争いであろう。この問題については1921年、ゴールディンが全米奇術師協会(SAM)に呼ばれ実演審査を受けたのち、セルビットに軍配が上がった。
(6) 石田天海 『奇術五十年』 日本図書センター 1998

泡坂妻夫 『大江戸奇術考』 平凡社(平凡社新書) 2001年
石田天海 『奇術五十年』 日本図書センター 1998
前川道介 『アブラカダブラ奇術の世界史』 白水社 1992年
松田道弘 『遊びとジョークの本』 筑摩書房 1996年
森島恒雄 『魔女狩り』 岩波書店(岩波新書) 1973年
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