奇術を主題に論を展開するさい、研究者は常に「マジック」という言葉の持つ二重性に注意を払わなければならない。それは、本当に超自然の力が行使されている(とされる)魔術と、人々に娯楽を与える魔術――すなわち奇術――とでは、その狙いと効果、また文化的意義が根本的に異なるためである。
たとえば、「虚空から腕時計や指輪などを取り出す」という同一の現象を提示するにしても、サティア・サイ・ババ(1)が信者の前でそれを行うのと、舞台奇術師が観客の前でそれを行うのとでは、そこにある驚きに質的な違いがある。同じ現象を、同じ手段で演出するにもかかわらず、そこに発生する意味が全くの別物になるということは、ありうるのだ(補足しておくが、これはあくまで奇術の視点で「魔術」を語っているのであって、サイ・ババその他あらゆる宗教上の奇跡の真偽を追求するものではない)。
同一過程を通して構築される現象が、状況と場合によって異なる存在として人々の前にあらわれるとしたら、それは各々を成り立たせる独自の条件が作用しているということである。
娯楽芸能としての奇術が、いかなる条件・要素によって成立するのか。考えられるものを、大きく3つの特性に分けてみた。
1. 超常識性
2. 虚構性
3. 成功の確実性
本章では、これらに基づいた考察を介して、奇術を奇術たらしめているものの姿を明確化し、また同時に概念としての「奇術」をより深く理解する手がかりを作ってみたいと思う。
超常識性
奇術は不思議のわざであり、驚異のわざである。タネを知る奇術師当人にとってはごく合理的なことでも、観客の側からは、理屈に合わない現象としか思えない神秘が目に映る。それが奇術だといえよう。
つまるところ、奇術現象のいっさいは、常識を超えているという点においてその驚きが引き起こされるのである。人々が日常において当然こうだろうと予測する日常的な世界のふるまいと、奇術師が見せる不思議現象とのギャップが、衝撃を生む。すくなくとも我々は、普通に暮らしているかぎり、人体が宙へ浮いたり、箱に入れた物が消え失せたり、帽子の中からウサギが飛び出したりする世界には生きていない。だからこそ、それが成されたとき、驚くのである。
しかしこれは逆にいうと、常識とのかねあいによっては奇術が奇術として成り立たなくなる状況も想定できるということでもある。
常識ということばを一般的に通用する意味で定義しておくと、「ある時代のある社会で大多数の人々に承認され、ふつうに持っているはずとされる基礎知識や判断基準」というところであろう。したがって絶対普遍的な常識なるものはなく、国や文化圏などさまざまなレベルの集団によって、また時代によっても、相対的なそれぞれの「常識」が存在することになる。となれば、集団Aが常識とする現象が、集団Bにとっては超常的なものとして認識されることもある。
奇術が「娯楽」「芸」であるためには、まず最初の更にその前に、「奇術という娯楽」「奇術という芸」そのものが認識者(観客)側の常識に組み込まれている必要がある。観客は、タネや仕掛けこそ知らないが、それが人工的な現象であることは、常識として知っている。だからマジックが商業になるのである。ところが、「これは芸能奇術なのだ」ということを常識化していない人々の場合、術者が起こした現象は文字どおり常識を越えた脅威の、受け取りようによっては神か悪魔の業となってしまう。
西洋近代奇術の父といわれるフランスの奇術師ロベール・ウーダンが、1856年、仏領アルジェリアに招かれた時のエピソードは、この問題を考える上でかっこうの例だろう。ウーダンが当地の知事ランドン元帥から呼ばれた理由は、アラブの有力者や現地住民から怖れられている呪術師たち(マラブー)に、フランス人の「魔法」の威力をみせつけてやってくれ、というものだったのである。
ウーダンは、空っぽの銀鉢からコーヒーを大量に汲みだしてみせたり、鉄の函を自在に重くしたり軽くしたりする質量操作の術でアラブの力自慢たちを驚嘆させ、それまで呪術権威の担い手であったマラブーたちの面目をつぶしてしまった。電磁力の活用法が常識化していない社会において、ウーダンのマジックは「ほんものの魔法」と受け取られたのである。
また、これとは反対に、常識とのかねあいで驚異効果を失ってしまったために成り立たなくなる状況も存在する。
たとえば、古代のある社会で、ある宗教の信者が神殿を訪れたとしよう。彼はまず神殿にぬかづいて祭壇に火をともす。と、なんと奥にある扉が独りでに開くではないか。見れば、そのむこうには神官や巫女の姿が。そして、厳かに神託が下される。民衆にはまさに神秘的光景であったろう(2)。
しかし、「独りでに開閉する扉」が、果たして現代でも奇術として成り立つだろうか。
当然、サイフォンの原理がごく普通の知識として普及し、また自動ドアの存在が日常化された我々に対しては、この神殿の扉の奇蹟は無効化される。目の前の現象が常識の範囲内におさまっているために、世界と認識との間に摩擦が生じず、驚きが生まれないのである。
虚構性(あるいは驚異の安全性)
前項では、「常識」という観点から驚異の発生の有無について述べたが、ここでは同じ問題を別の角度から眺めてみることにする。
奇術が、「ほんものの魔法」ではなく、娯楽芸として常識化している社会というのは、換言すれば「フィクションとしての魔法」が広く認知されている社会だということである。
映画史には、その黎明期に、リュミエール兄弟による記録映像を目にした人が、画面上で迫ってくる汽車に本気で怯えて席から転げ落ちたという逸話が残っている。これは観客の中に動く映像をフィクションとしてとらえる素地がまだ作られていない段階だったからこそ生まれたエピソードといえる。
奇術の世界においても、演者だけでなく、観客との相互了解として、しかも暗黙の了解として、その場で起こる不思議現象が根本的には虚構であるという認識が成立のために不可欠となる。
そうでなければ、マジックを目の当たりにした観客はそこに感じる驚異から「ほんものの魔法」としての脅威を感じ取り、演者は(当人の意志に関わらず)一種の権力を付与され、演者−観客の関係は上下の危うい位置づけになってしまう。こうした危険性を免れて娯楽性、芸能性、そして商業性を確立するためには、「マジック」はあくまでもフィクションでなければならないのである。
奇術がフィクションである限り、観客が日常で属している常識的な世界は脅かされない。奇術が展開する異世界に一時的な外出をしているだけなのだから、奇術師の見せる不思議のわざにどれほど驚かされようとも、我らが帰るべき日常は安全性を保証されているのだ。
成功の確実性
奇術は、成功する。当然といえば当然である。
視野に入れるのが奇術ばかりだと、この点はさして気に留められることはない。そういうものだと一言で片づけてしまえばそれで終わりである。
しかしここには人間の複雑微妙な心理に関わる問題が潜在しており、とりあげようによっては十分考察にあたいする対象となるのである。
たとえば、心霊術、星占い、血液型別性格診断の類では、占われる者についての言及が100%的中している必要はない。100項目中3割も当たれば、全体としては「よく当たる」という印象を与えることができる。また、宗教的なものでも、超能力によるものでも、多くの場合、予言や読心術が細部にわたって完璧に当たるという例はほとんどない。というより、完璧であればかえってリアリティが薄れ、うさんくさく見られてしまうという不思議なことが起こってくる。人は何故か、「少し違っておおむね当たっている」ほうが説得力を感じるようなのである。
これは、ひとつには、100%の結果を出すものは背後に合理的なシステムを備えている、と推測をする人間の心理に関係があるのかもしれない。占いや予言といった不合理的な神秘は、人間には100%は使いこなせないブラックボックス部分を確保しておいたほうが、ありがたみが感じられる。そういう、超常現象の超越性を維持しておきたい気持ちの表れと解釈することも可能だろう。
それでは、どうして奇術は100%の成功率が求められるのか。また、その必要があるのか。
まず、前項で、奇術はフィクションという異世界で展開される娯楽芸能だということを述べた。これはすなわち、不思議なことが当然起こるだろうと期待される領域で現象が提示されるということである。魔法や超能力は、我々が生きている実際の世界に食い込んでくる神秘現象である。したがって、我々とのつながりを濃くするために絶えず「もっともらしさ」「説得力」が構築されていなければ、世迷い言で終わってしまう。そこが、奇術との相違である。
もうひとつ、劇場や路上で行われる芸能奇術の商業的側面も考えあわせなければならない。
奇術師は無形商品として不思議な現象を観客に約束し、観客はそれに対して相応の代価を払う。金が払われたならば、奇術師にとって、信用問題から商品は確実にとどけなければならない。100%の成功率は、商業者としての義務なのである。
[補足]
ただし、最終的には演目を成功させるとしても、演出上の要請から故意に失敗を織り交ぜることはある。これはいわば「時間差ビックリ箱効果」とでも呼ぶべきもので、奇術でも多くの演目で採用されている。
一例を挙げよう。術者が「あなたが先ほど引いたカードはこれですね?」と言ってわざと見当違いな札を差しだし、客が奇術師の失敗を笑ったところで、唐突に客の上着のポケットから当たりのカードを取り出してみせるのである。
こうした不意打ちをくらうと、観客が警戒を解いて油断していたぶん、単純に当たり札を示されるよりもショック効果は倍増する。驚かせてこその奇術であれば、観客の警戒(=驚きへの予防機能)を解く技術の導入は必然だろう。大いなる驚きの下ごしらえとして、意図的な失敗が組み込まれるのである。
まとめ
以上、3項目に沿って奇術の成立条件を考察してみた。
本章の内容を統合して簡潔にまとめると――フィクションであるという前提のもとで常識を越える不思議な現象が発生し、 「安全な驚き」が提供され、その術が成功したとき、 娯楽としての奇術が成立する、ということになる。

(1) サティア・サイ・ババ
インド南部プッタパルティ出身の宗教家。自らを「神の化身」と主張して数々の奇跡をおこない、多くのヒンドゥー教徒を信者として集める。なにもない空間から、治病効果があるとされる粉末状の灰(聖灰;ビブーティ)や、指輪、腕輪、時計などを取り出すといわれている。日本では1990年代にマスコミが取り上げて有名になった。
(2) ヘロンの公式(三辺の長さから三角形の面積を求める)で知られるアレクサンドリアの数学者ヘロン(紀元前2世紀)は、この奇蹟をサイフォンの原理によって説明している。聖火台に点火して内部の空気を膨張させると、それが地下に仕付けられた容器内の水を移動させる。移動した先にある別の容器は水の重みで下がり、滑車の働きで綱を引っぱる。綱は巻き付いている杭を回転させる。杭は地上で神殿の扉の回転軸につながっているので、扉が開いていくというからくりである。火が消えれば、空気の収縮とともにこの過程が逆転し、扉が閉まることになる。

菊池聡 『不思議現象 なぜ信じるのか』 北大路書房 1995年
中村弘 『マジックは科学』 講談社(講談社ブルーバックス) 2000年
前川道介 『アブラカダブラ奇術の世界史』 白水社 1992年
ジェイムズ・P・ホーガン 『造物主の掟』 東京創元社(創元SF文庫) 1983年
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