既に述べたとおり、現在、芸能奇術界においては、欧米スタイルがその主流となっている。産業革命以降、西洋型近代社会の在り方が世界的に波及すると共に、いわゆる先進諸国は生活様式そのものを(表層的にか本質的にかはともかく)一様化する道をたどってきた。そしてそこにはもちろん文化的事象も含まれており、芸能……本論文が取り扱う奇術も、例外ではなかったのである。
わが国では政治的事情もあって、西洋奇術が本格的に流れ込んできたのは明治以降のことだったが、しかしそれは江戸期以前の日本が奇術文化を持たなかったということを意味するものではない。
ひとつの国において、人々が理性に富み、ある程度の層が経済的余裕と安定性を持つ時代があれば、それは優れた奇術の土壌が存在しえたということであるし、実際に日本はきわめて上質な奇術文化を育んできたのである。
本章では、古代から江戸期までの日本の"マジック"(魔法、奇術双方の意味においての)を眺めていきながら、それを西洋化の始まる明治期につなげることで、日本の奇術史をおおまかにではあるが組み立ててみたいと思う。
呪術−日本奇術前史
われわれは多くの場合、奇術をマジック
Magicという。
古代ペルシアに生まれたゾロアスター教の呪術僧の呼称に由来するこの語は、日本語においては「魔法」「魔術」と訳され、本来は超自然的存在をエネルギー源として何らかの現象を引き起こす(と術者が主張する、もしくは目撃者が解釈する)様々の術やその力を指し示す。また現代では、マジックは魔法という建前をもって演じられる芸を言い表す名詞としても用いられており、その場合はさらに「奇術」という訳語が加えられることになる。
ところがこの「奇術」の語感には、魔法の色合いはない。あくまでも娯楽・遊戯・芸能としての機能に重きをおいたことばである。これは、「奇術」という名が広く一般化したのは明治期、日本手品界が欧米のマジックを積極的に導入しようとした結果であり、はじめから娯楽芸の看板として用いられたという経緯があったためであろう(1)。
魔法としてのマジックに当たるものとしては、幻術、外術(げじゅつ)、鬼道などがある。
文献上日本最古の"マジシャン"である卑弥呼は、魏志倭人伝において「鬼道を事とし、能(よ)く衆を惑わす」と描写されている。鬼道は仏教系の語で妖術の類を意味するが、卑弥呼の「鬼道」は神の声を聞き国内の政治指針を打ち立てるシャーマニズムであり、同時にその呪術性こそが3世紀の倭人社会を政治的に統合した権威の基礎であった。
ここで重要なのは、彼女のマジックが物理的実効力をともなった"本物"だったか否かではない。問題はそのマジックが本物であると術者によって主張され、また民衆(=観客)がそれを超越的驚異として認識し、本物であると権威を見出したことにある。この点において古代呪術は、虚構性を演者−観客間で相互に前提とする娯楽芸能と大きく異なるのである。
また、卑弥呼より後、大陸との交流が活発化するなか、当時としては最新の医学の担い手たちが多く渡来してきている。
5世紀の初めには朝鮮の新羅から天皇の病の治療のために薬が運ばれた。薬(くすり)やその処方者である薬師(くすし)は「奇(く)し」という古語が源にあり、やはり専門知識のない人々にとって治癒の術をもつ(=人を死という絶対状況から救い出す)医学者は一種のマジシャンであったのだろうことをうかがわせる。
このような呪術と医術の未分化存在の一例としては、さらに後に入ってきた呪禁道(じゅごんどう)があげられる。これは薬物と呪術を併用して、猛獣や病気、事故などから心身を守るために用いられた。6世紀後半に百済から経論や僧、造寺工と並んで渡来してきたものである。
しかし、大陸からの文化的渡来物のなかで最たるマジック的なものは、遣隋使や遣唐使によってもたらされた陰陽道(2)であった。645年の大化改新をはじめとする律令制にも大きな影響を与えたこの理論的思想は平安期に入ってもなお栄え、安倍晴明という伝説的な"マジシャン"を出すまでに至った。
晴明の術は『今昔物語』『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』などに記述があるが、本来の役目である政治的占師や呪術医師としての仕事を離れた純然たる見せ物として、集まりの席で術の披露を乞われることが幾度もあったというのが面白い点である。
雑戯
日本において芸能としての奇術のはじまりをもとめるならば、前項に述べた"マジック"とは別の流れをたどることになる。奈良時代、中国から伝来した散楽雑戯(さんがくざつぎ)がそれである。散楽雑戯は中国では百戯または雑技と呼ばれ、音楽をともなった曲芸や軽業、舞踊などを含む雑多な芸能であり、安息(ペルシア)からシルクロード経由で武帝時代の漢に伝えられた奇術が組み込まれていたとされる(3)。『漢書』などから推測できるところでは、火を吐く術、刀をのむ術、ウリの種をまいて木に生長させる術などがあったと考えられる。
仏教文化とともに、聖武天皇期に日本へやってきて東大寺大仏開眼に奉納された散楽は、政府公式の養成機関で技芸が伝授されるようになった。宮廷行事や公宴の余興を担当し、演者は呪師(ノロンジ、ジュシ)と呼ばれた。この名称は呪文を唱えながら芸を演じたことからきている。
散楽は、やがて日本風土の中で形態に変化を見せ始めることになる。散楽は本邦化すると猿楽とよばれるようになり、平安初期には散楽の養成機関は廃止されることになる。しかしこれによって、宮廷から受ける制限を脱した芸人たちは一般に広まって新たな芸能を発達することができたのだった。
ここから先、猿楽は大きく分けて二つの方向に展開していく。
まず、滑稽芸や言葉芸は演技性を高めて洗練され、鎌倉時代に狂言を生み、さらに劇化して能が発生した。
一方、舞踏や奇術など即物的な驚きを提供する呪師たちは猿楽から独立分離、多くは寺社の配下について行事の余興を受け持った。平安中期には寺社からも離れて大衆芸能となり、彼らの行う芸は外術(げじゅつ)という名で呼ばれた。仏教の法からはずれた不思議の術、つまり外法(げほう)の意である。奇術研究では、主にこちらの流れを追うことになる。
放下
外術はまだ魔法妖術としての"マジック"の香りを残している。室町時代以降、名の知られた外術師は為政者からも恐れられる幻術の使い手であったといわれている(4)。このため桃山時代にはキリシタン妖術と混同され、禁止を受けてしまった。ただ、外術のなかの幾つかの小さな奇術が放下僧(ほうかそう)に伝えられて江戸時代に手品へとつながり、命脈を保ったのである。
放下僧の発生は、田楽(でんがく)から曲芸芸人たちが分離したことによるとされる。田楽は豊作祈願の田遊びから発達した芸能で、散楽出身の芸人を組み込んで同業組合を形成したり、専門の職業芸人(田楽法師)もあらわれたが、室町時代中期の猿楽の盛り上がりに押されて衰退した。そのため、吸収されていた曲芸芸人たちはまた田楽から去り、寺社境内や辻々で勧進興行をおこなうようになった。
それを、放下僧というのである。放下は放家でもあり、俗世を捨てる意味である。
放下僧の芸が一般の人たちに移ると、彼らは放浪者となって諸国をまわるようになり、放下または放下師と呼ばれるようになった。
その営業形態は今でいう大道芸人にあたり、小手先の奇術の他、玉や刀を投げ上げては受け止める乱取り芸などを見せていた。関西圏でものを捨てたり投げ置いたりする動詞を「ほかす」というが、由来はこの放下師の投げ物の芸で、つまり「放下す」の意である。
和奇術の最盛期
江戸時代に入って、日本の伝統芸能の奇術は最盛期を迎えることになる。
その夜明け前にあたる、16世紀末、京の四条河原が盛り場となり、芝居・見せ物・大道芸が集結するという状況があった。見せ物小屋の発生である。
小屋掛けして奇術を演じるというこの形態は、のちの発展のために非常に大きな役割を果たしたといえよう。見せ物小屋に入る客は、もはやかつて古代宗教の"マジシャン"の鬼道に脅威を感じた無防備な民衆ではない。見せ物小屋の奇術師は不思議の芸それ自体を提供することを売りにしており、観客もまた木戸銭を支払って、驚かせてもらうための手続きを能動的に行うのである。
すなわちここで日本の奇術ははじめて、政治的権威の副次的補強手段としての縛から解放され、それ自体を楽しむ純粋な文化的娯楽の座を手に入れたのである。
そして江戸時代に入り、隅田川の両国橋東西の広場、寺社の境内や広小路に盛り場が形成され、いよいよ奇術は本格的な芸能として成立するに至った。
江戸時代になると、奇術は手品とか手妻(てづま)とよばれるようになる。
手品は手のしな、手のあや(技巧)のことで、手先の巧みなさばきによる熟練技を意味する。手品に対して、道具や仕掛けを中心とするものは「からくり」と呼ばれた。からくりは絡繰(からく)る、操るの意で、寛文2年、竹田出雲のからくり人形芝居が大坂で大ヒットしてから、自動装置を指すようにもなった。
元禄10年(1697)には、わが国最初の奇術解説書が刊行されている。『神仙戯術(しんせんげじゅつ)』という書で、中国の文人画の大家、陳眉公(ちんびこう)の著を翻訳したものとされる。他にも、享保年間(1716〜36)には『珍術さんげ袋』『珍草たはふれ草』『神仙秘事睫(ひじまつげ)』などの手品伝授本が刊行された。
これらの伝授本には、紙でつくった蝶を飛ばす、白紙を吹いて卵にするなどの奇術が解説されている。
歌舞伎のなかの奇術
江戸期のトリック、からくりの豊かさについて述べるさい、歌舞伎の存在を欠かすことはできない。
歌舞伎の舞台装置を、奇術の視点から見てみるというのは楽しい試みである。そこには、驚くほど数多い仕掛けが施されているからだ。セリや回り舞台など大がかりな機構装置、衣装の早変わり、俳優の空中浮遊(宙乗りという)、人魂、そのほか諸々の仕掛け小道具など、細かく挙げればきりがない。
これらのからくり舞台仕掛け──ケレンと呼ばれ時には邪道視される──には、江戸中期の人形浄瑠璃が多大な影響を及ぼしている。正確には操り浄瑠璃といい、浄瑠璃の太夫の語りと三味線演奏によって人形を操る芝居である。竹本義太夫という語りの名人や、名脚本家・近松門左衛門が現れると、人形浄瑠璃は人気を集めに集め、一時は歌舞伎を「あれどなきがごとし」といった状態に追いやるまでになった。
しかし、近松の作品を取り上げて京や江戸で歌舞伎に翻案したところ、いずれも大いに好評を得たため、人形浄瑠璃の脚本が次々と歌舞伎にリメイクされ、一大分野を築くに至った(5)。
したがって、必然的にこれら人形浄瑠璃原作の歌舞伎は演出上でも影響を受けており、観客はそこで繰り広げられるトリックやからくりの使用を人形浄瑠璃の延長としてごく自然に受容することが可能だったのである。
ちなみに、江戸期までの日本奇術(手品、手妻)の特徴のひとつに、西洋に比して大がかりな舞台マジックショウが明治期まで育たなかったという点があるのだが、それはこのからくり仕掛け使用の歌舞伎が既にその機能を果たしていたためとも解釈できる。例えば有名どころでは狂言作者・鶴屋南北4世(1755-1829)の『東海道四谷怪談』『音菊天竺徳兵衛』(6)などをみても、物語だけでなく、随所に用いられた変化妖術の演出そのものが当時の観客にとって大きな目当てであったろう事は想像に難くない。
西洋奇術との合流
江戸の世が終わると、良し悪しは別にして、西洋へ向けての文明開化の時代である。
安政の5カ国条約(安政5年、1858)が結ばれ、日本は諸外国との貿易をはじめることとなった。
複数の国家間の交流で移動するのは、何もモノだけとは限らない。古来より、モノの輸出入には必ず文化的な影響がともなうものであり、その流れを構成するひとつの層が芸能人であった──ちょうど、先述した奈良時代のように。ただ、奈良時代との相違は、日本で海外の奇術文化を受け入れると同時に、日本からも奇術師たちがかなり早い時期から海外へ渡って活動したというところである。
明治から大正は、この東西洋の奇術の接触にともなって、日本奇術界にある種異様な改革の熱気がうねりを上げた時期であった。西欧の奇術が相次いで輸入され、ここでようやく"奇術"と銘打った興行が登場しはじめた。「奇術」という語は、「西洋奇術」というふうに、おもに海外のマジックを指すときに用いられた。西洋奇術を吸収して以降に演じられるようになったのは、大仕掛けの機械や電気応用の術、人体切断術などであった。
この時期、帰天斎正一(きてんさいしょういち)、松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)らの奇術師が活躍した。とくに正一は一座とともに海外を巡業、帰朝後に歌舞伎(かぶき)座で旗揚げ興行を行うなど、人気が高かった。
天一の弟子・松旭斎天勝(てんかつ)という女性は天一の没後、座長となって奇術界を風靡し「女王」の名を残すにふさわしい活躍を見せた。大正、昭和の初期にかけてが松旭斎一座の黄金時代であった。彼ら彼女らは西洋奇術と日本手品の統合を試みたことで現代日本のマジックの基礎を築いた、大いなるパイオニアだったといえるだろう。
こうした経緯を土台として、現在の日本奇術界は完全に西洋と波長を合わせた様相を呈しており、近年、大規模マジックの新称として使われるようになった「イリュージョン」という用語も、欧米にならって早々と導入されている。

(1) 「奇術」という語それ自体の使用例は古く、国内では『日本書紀』(720年完成)の「皇極紀」に、国外では韓愈(768-824;中国唐代の詩人)が遠地の友人に捧げた詩の一節に見ることができる。しかし、そこでは妖術・幻術の別称であったり、単にふつうでないやり方を意味する程度であったりと、現代とは用法が違っている。そのため古来より「奇術」という語が絶えず伝承されてきたというわけではなく、あくまでも近代(明治期)に入ってから西洋マジックに翻訳を与える際に古い語を発掘してあてがったと捉えるのがより正確である。
(2) 陰陽道(おんみょうどう)
古代中国の学芸の集大成。全ての物性を陰陽の2つに分類し、天地の組成を木火土金水の5要素とし、それらの相互影響によって天文・暦数・地相などを人間社会に照合させて政治や人間の活動方針を決定する自然統御の理論である。
(3) 司馬遷の『史記』「大苑列伝」に、安息(ペルシア)の使者が漢に来朝し、大きな鳥の卵と奇術師(原語では「善眩人」。上手な幻術師というほどの意味)を献じたとの記述がある。この奇術師は黎軒(ペルシア湾のレケム地方)の者であった。
(4) とくに傑出しているのは果心居士(かしんこじ)であろうか。事実はともかくとして、江戸元禄期に書かれた娯楽本では、彼はそのたぐいまれな幻術によって民衆を眩惑したのみならず、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉らを次々とたぶらかしたという逸話が記されている。
(5) こうした人形浄瑠璃の脚本のリメイク芝居は「義太夫狂言」「丸本物」(まるほんもの)と呼ばれた。
(6) 『音菊天竺徳兵衛』(おとにきくてんじくとくべえ)
初演は1804年、主演は初代尾上松助(松緑)。主人公の徳兵衛は播州高砂の船頭で、天竺(インド)に渡り見聞録を残したという実在の人物。鶴屋南北の狂言では彼が朝鮮の遺臣木曽官の遺児にしてガマの妖術を使う国崩し(謀反人)であるという設定になっている。スピーディな早替わりや水芸などによって大当たりを取った。

泡坂妻夫 『大江戸奇術考』 平凡社(平凡社新書) 2001年
藝能史研究會『日本芸能史・第1巻──原始・古代』 財団法人法政大学出版局 1983
日本芸術文化振興会 『緒方奇術文庫書目解題』 紀伊国屋書店 1992年
諸橋轍次 『大漢和辞典』 大修館書店 1984年
吉田晶 『卑弥呼の時代』 新日本出版社(新日本新書) 1995年
司馬遷著、小川環樹他訳 『史記列伝(五)』 岩波書店(岩波文庫) 1979年
『古事類苑』 吉川弘文館 1996年
『人名小辞典』 新興出版社・啓林館 1962
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